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新北市淡水區公所

 
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多田栄吉

多田栄吉

    1864年(元治元年)生まれ。本籍は日本兵庫県神戸市元町通3丁目82番地の1であった。多田家は神戸では代々名の知られた地主であったが、その生活は非常に簡素であった。多田家は公益活動に熱心で、近所で世話をした野宿者は5、60人にのぼり、彼らに生計を立てる能力を訓練したのことは賞賛に値しよう。多田栄吉もその父祖の血筋と影響を深く受け、社会公益活動への努力に一生をかけた。日本統治時代に来台した企業家のうちで、「公益事業を喜びとする数少ない人物」と評されている。

1897年に多田栄吉は海を渡って来台し、台北の栄町(現在の衡陽路)に「千代田商会」を設立し、電気器材の販売を始めた。1905年には淡水に居を移し、淡水税関の酒保(しゅほ、販売部門のこと)から、各種雑貨と政府機関必需品の請負業務の投資、経営までの業務を行った。その後、「淡水興産組合」を創設し、半農半漁であった淡水住民と女性に対して、閑散期の家庭での内職を奨励した。 
1920年(大正9)10月に、第1期淡水街協議会員に就任し、それから連続5期にわたり協議会員を務め、これは淡水街協議会員のなかでは最長であった。その後、淡水生産販売組合長、淡水副業利用販売組合長、淡水築港期成同盟会委員長、淡水商工会会長、淡水漁業組合長、第4期淡水街長、淡水商工会顧問、勧業港湾調査社会事業委員、台北州畜産会特別議員、台北州税務課所轄郡部所得調査委員、保証責任淡水建築信用購買利用組合組合長を歴任した。

1930年(昭和5)には、淡水街第4期街長に任命され、淡水街長としては初めての日本人となった。当時彼はすでに66歳であり、1933年(昭和8)に半年前倒しで辞表を提出した。淡水街長を務めたのは僅か3年半であったが、任期内の功績は、特に交通と教育の面で記録にとどめるべきものも少なくない。1945年、日本が敗戦を迎えると、多田家も全員日本の神戸に送還された。晩年は淡々とした人生を送り、淡水で暮らしていた他の日本人とも連絡を取り合わなかったという。

 
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  • 更新日期:2021-02-02
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