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新北市淡水區公所

 
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シーズー

シーズー

シーズーは淡水の賢者の中で最も独立独歩の人で、優れた人格を代表する人物と言えます。1922年、彼はまだ24歳で結婚したばかりでしたが、誰もがうらやむ職位と高い給料を手放し、浮浪者救済収容所を創設して慈善事業に没頭しました。 シーズーは1899年に滬尾米市街(現在の清水街146号)に生まれ、1912年に滬尾公学校を卒業した後、台湾人には入学の難しい台北州工業学校に合格しました。1917年、優秀な成績で卒業、まもなく日本総督府商工課に技師として招かれました。仕事で艋舺の貧民の生活状況を調査中に、植民統治下で苦しむ身寄りのない浮浪者の生活をかいま見たことから、病気の浮浪者を医者に見せたり、その子供らに勉強を教えるようになりました。より多くの浮浪者を助けるべく、伯父の施煥に頼んで父を説得してもらい、父から提供された木材で台北緑町(現在の大理街)に浮浪者救済収容所を建て、その名を「愛愛寮」としました。シーズーはこの時、総督府の職務を辞職し、全力で愛愛寮の浮浪者と身寄りのない者の世話に従事し、自ら彼らの体を洗ってあげ、織物を教えました。また、裏庭に豚を飼ったり野菜を植えたり、彼らに自給自足の道を作りました。その経費はすべて寄付金だけでまかなわれていました。シーズーの善行は日本の菊池寬の報道によって知れ渡り、日本の天皇より賞金を賜りました。先妻であった謝氏惜(1932年没)、そして後妻となった京都の清水照子も、シーズーに付き添って200名余りの浮浪者と愛愛寮で共同生活を送りました。1944年、シーズーは高血圧で若くして亡くなりました。その後は照子夫人が引き継ぎ、その遺志は今なお受け継がれています。シーズー一家の偉業にはただただ驚嘆するばかりです。

 
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  • 更新日期:2021-02-02
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